月曜日, 6月 23, 2014
噬罪人 呂秋遠
★★★★★
那是個大家都還在用無名小站的時代。我剛考上研究所搬到了日本,而國小同學令真則到了紐約唸Law School。其實小學畢業後我們再也沒有聯繫過,然而網路的力量讓我們再度有了連結,在紐約的夜晚她看著我在東京賞花做菜,在東京的清晨我看著她上法院旁聽後記下的心得。
雖然無名小站已經消失,我也不曾備份,但令真的文筆非常好,她上法院旁聽後的記事更是讓我印象深刻。令真曾提出一個問題,若一個少年生長在貧民區,有著酗酒的父親吸毒的母親跟不知道父親是誰的成串弟妹,當他一懂事就得靠自己力量搏鬥生存,當他因街頭暴力被帶到法庭時,我們,我們這群穿著熨燙整齊的套裝,受着良好教育的所謂知識分子,到底有多少權力去判定他或她的過錯。
而我常引用的白石一文『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』書中也同樣地提出,我們考上名校找到好工作依靠的不僅是自己的努力,更有許多旁人的支持;而那些所謂社會邊緣人,我們是否太快為他們下了「不夠努力」的結論。
有點扯遠了,回到呂律師的『噬罪人』。呂律師的『噬罪人』讓我再次想起令真的文章,在現實生活中,我們往往不自禁地用簡易的對錯二分法去評斷社會事件。很多時候,我們只著眼在法律判決結果而忽略了背後血淋淋的人性糾結,或者誤認判決就是事件的終結而忘記了兩造接下來還有漫長的人生。『噬罪人』裡的故事,與其說是一個個的案例,倒不如說是人生的悲喜劇,提醒著我們善與惡的不絕對,提醒著我們追求更溫柔的心。
水曜日, 6月 04, 2014
怒り(上)(下) 吉田修一
★★★★☆
良い意味で後ろめた作品だった。
人を殺し、整形をして逃げる犯人の男といえば、誰もがあの英会話の外国人講師を殺害し、逃亡していた市橋達也を思い浮かべるだろう。本名を隠し居場所を転々として千葉の漁港に落ち着いた田代、沖縄の離島にやってきたバックパッカー田口、ゲイの居候していた直人のどれが本当の犯人を追求するミステリーというより、吉田修一氏が書きたかったのは一番大切な人を信じたいのだが信じきれない、大切な人を信じられないのは本当は自分を信用していないではないかという人間の葛藤だろう。
犯人ではなかった娘の恋人を疑い、追い詰めた洋平は「自分はいったい何に目をつぶろうとしていたのだろうか。目をつぶろうとしていたのはこの事件ではなく、自分や愛子の、期待できそうにない人生に大してだったのではないか。」犯人ではなかった恋人を疑い、関わりを否定していた優馬は、本当は自分のことさえ受け入れていないのではないか。
一方、本当に信頼していた人に裏切られた人もいる。「信じていたから許せなかった」と辰哉が言った。何なんだろうね。
なぜかこの間台湾、台北地下鉄で起きた通り魔事件を思い出した。事件後、容疑者(大学二年の学生)の大学から同校の学生向けの発表があったが、発表のなかでは容疑者と線を引くことがなく、「君たちを愛しているつもりだったが、愛しきれない」(我們愛著他們,卻也不夠愛他們)。本書に登場する主人公も同じ、信頼しているつもりだったが信じきれない普通の人間の心理をリアルに描く筆致は実は秀逸だった。
帯に「『悪人』から7年、吉田修一の新たな代表作」と書かれた。本書は確か意欲作でありぐいぐいと引き込まれたが、残念ながら『悪人』と比較できる傑作とは言えないのではないか。
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